ずっと僕らは一つなんだ
いつから、どのくらい好きだったかなんて言ったら、たぶんそこまでではないんだと思う。今でも知らないことのほうが多い。
子どもの頃から日曜日はDASHを見て、時々ドラマを見て、兄が買ってきたCDを延々と流していたのでそれを聴いて過ごした。TOKIOの音楽はいつも生活の中にあった。
ライブに行き始めたのは随分遅かった。初めて行ったのは2009年。遅い。
でも楽しかった。初めてのロックは最高だった。バンドTOKIOにやっと出会えた瞬間だった。
他に行ったいくつかのグループのコンサートも勿論楽しかったけれど、団扇もペンライトもいらない無骨なライブが自分にはしっくりきた。
それから番協に足繁く通った。何度も何度も。
はけ際に達也が小さく手を振ってくれたこともあった。
立ち見でぎゅうぎゅうに詰め込まれてるときにスタッフが道をあけてくださいと叫び、モーセが海を割るが如く通って行ったTOKIOとの距離があまりに近くて、悲鳴が声にならなかったことを今でも昨日のことのように思い出す。TOKIOはめちゃくちゃにカッコ良かった。
PLUSツアーからは遠征もした。
最近諸用で当時の日記を読み返したらオナラの話でゲラゲラ笑っていたことや太一がぴょんぴょん舎で爪楊枝を飲み込んでしまったことなどが記録されていた。もっと何かあったんじゃないか自分。
震災の影響で振替公演となった武道館には福島の方を招待しライブに来ていただいた。義理堅く誠実なTOKIOはやっぱりカッコ良かった。
翌年の1718ツアーでは東北公演で「特別な時間」を設けて、震災後にリリースした見上げた流星を披露してくれた。
正確な言い回しはもう覚えていないけど長瀬は『僕らにできることは何だろうって考えて話し合って、やっぱり音楽で伝えるのが一番いいんじゃないかと思った』そんなことを語った。
長瀬の言葉、バックに流れる村の景色やお世話になった沢山の人達の笑顔、5人の姿に泣きじゃくった。
終演後、隣にいたマダムに「楽しかったわ、ありがとう」と声をかけられ握手した。TOKIOのライブはいつもあたたかかった。
TOKIOの根底にあるのは音楽だ。DASHのイメージから農家だ業者だとどんなに揶揄されても、TOKIOはバンドだった。
福島公演には明雄さんが来ていた。数メートル先にいた太一がずっと2階を見上げていて、その目線の先に明雄さんがいた。友達と明雄っちには敵わないやって笑った。だって6人目のTOKIOだから。
20周年はお祭りだった。
ほぼ毎週ライブがあったから、運動になったのか少し痩せた。
雑誌向けに撮った写真に映り込んだ。
今でもロック画面はこの写真にしている。
オーラスの後の飲み会で、別れ際にまた来年とも言えなくて、「また…!」とだけ言って解散した。
次がいつかなんてわからなかった。殆どの人とそれきり会えていない。
その後の番協やイベントにも、都合がつく限りはなるべく通った。
ライブのラの字も出さないTOKIOから、友人達は次々離れていった。
25周年までライブをやるつもりはなかったらしいと、後になって聞いた。
1人になっても往生際悪く細々と番協に行き続けた。
2017-18年のカウコンにも参加した。5人が揃った姿を見たのはそれが最後になった。
2018年4月25日、達也が事件を起こしていたことが発覚した。
5月6日、彼は事務所と契約解除、芸能界から姿を消した。
2週間ほどの間、ワイドショーやら週刊誌、Twitterでもネット記事でも散々言われた。針の筵だった。
TOKIOだけ好きだったらもっとダメージが大きかったかも知れないと言う子がいた。本当にその通りだと思う。
他の夢から遠ざかって、今さら他のグループやジャンルには食指が伸びなくて、保険をかけるように、取ってつけたように他所に移るのは違う気がしていた。
夢が終わることに気付いていたのに次を探さなかった自分は、終わりかけの夢にしがみついていたのかもしれない。
一つに絞ることはないさ/一つでもあれば最高さ TOKIOの歌詞にいつまでも甘えていた。
余談だが、この2年間猫カフェに通い詰めたら猫達に随分懐かれた。猫かわいい。信じていいのは猫だけ。
さて、事件以来、音楽番組にTOKIOが出ることはなくなった。ジャニーズ特集と銘打たれても当然飛ばされる。
どこを探してもTOKIOはいなかった。
映せないならモザイクでもかけて流してくれたらよかったのにと今は思う。TOKIOの音楽は確かにそこにあったはずなのに、まるでないものとして扱われた。腫れ物のようだった。
今年のテレ東音楽祭で顔がわかるほど映ったのには正直驚いた。手放しで喜んでいいものか戸惑った。
山口くんの音がなければTOKIOの音楽は成立しない。
会見での長瀬の言葉がずっと引っかかっていた。
そうは言っても、どう足掻いても彼を戻すことはできない。性犯罪はそう簡単に許されるものではない。相手が、被害者がいる。現実は厳しかった。
「4人でやればいい」「丸山に代わりにやってもらいなよ」「誰か有名なベーシスト入れたら」周りの言葉は全部拒絶した。割り切れなかった。
後輩グループで誰かが辞めるたびに、残るメンバーでステージに立ち続けるのを、すごいやと思って眺めていた。
減っても減ってもライブやるの、活動し続けるの、簡単なわけないのに。
4人になってからも現場には行った。
自分の感情がよくわからなかった。
実際に4人でいるTOKIOを目の当たりにしても、TOKIOが4人でステージに立つ姿は想像できなかった。
かと言って5人で立つことも叶わない。
どこにも活路を見出せないまま、時間が過ぎた。長瀬が辞める噂も聞こえていた。
長瀬辞めちゃうの?と聞いてくる人がいた。いつかそんなときはくると思ってるよ、と答えた。事務所に残る理由が見当たらなかった。
事件前から友達が全員で事務所を出たらいいと言っていたのを思い出しては、大事なもの、DASHと福島とフマキラーだけどうにか残して事務所を辞めれないかとばかり考えていた。
共に闘ってきた仲間は死ぬまで仲間!太一の言葉が心強かった。
リーダーは結婚したとき、6人目のTOKIOである明雄さんの墓前に報告に行った。思えばこのときもTOKIOは5人だった。
長瀬が新しくギターを作ったことも、太一がおさんぽやタヒチで歌ったことも、松岡がドラマでドラムを演奏したことも後輩に曲を書いたことも、音楽に関わっている彼らを感じては少しの光を見ているような気になっていた。
7月22日
19時すぎ、仕事終わりにTwitterを見た。TLにFCより先に出すなというツイートを見てすぐに閉じた。
少し間を置いて恐る恐るYahooアプリを開き、記事を薄目で読んでこれもまた閉じる。
じきに正式発表があるなら、待つしかない。とにかくネットもLINEも見ないようにした。
待っている間、猫が寄り添ってきた。随分懐かれたものである。気が紛れた。
そして20時35分、メールがきた。
3人連名のメッセージには、長瀬を送り出すことと会社を設立すること、そのあとに長瀬からのメッセージ。
遂にこの日が来たと思うと同時に会社設立がどうにも面白かった。
具体的にいつ辞めるという記述がなかったので、ふわっと辞表を渡されたような感じだった。時期については記事を見て知った。
バンドから、会社へ。
辞めてしまえば簡単なのに楽なのに、ずっと辞めなかった彼らが新しく切り拓いた道は思っていたのとはだいぶ違っていたけど、彼ららしかった。
長瀬のこれからについても、彼の頭の中の音をいつかまた聴ける日が来ると思えば嬉しかった。
本当にずっと、事件以来ずっと止まったままだったから。
彼の感謝と誠意は充分すぎるほどに感じた。自分が宝物だと思っているものを、長瀬も宝物だと言ってくれて嬉しかった。
インタビューの中で松岡が「(音楽活動を)やろうと思えばできたけど、メンバーでそのタイミングじゃないとジャッジした」と話した。5人で大いに語っていたというのも。
タヒチで緊張した面持ちで報告する太一が「僕らは4人ではなくて、5人です」と言い切った。
2年間、今活動しているメンバーのことを言うときは4人と表現するけれど、TOKIO全体のことになるとメンバーだとか仲間と言っていたように思う。
そこに達也もいるのかなとぼんやり感じていた。
ずっとTOKIOはTOKIOのままだったのだとわかって安堵した。
メールがくるまでネットを開かなかった甲斐もあり、本人達からのメッセージを先に受け取ることができたので、一昨年のあのときよりも緩やかに受け入れられた。
音楽活動について、彼らが決めたならそれでいい。
どうするつもりなのかああでもないこうでもないと思い悩んでいたのは杞憂に終わった。
ただ未練はあるので、気の長い話になってもいいから、5人でまた何かやろうかって気持ちになったら、もしよかったらそのときは呼んでほしい。
太一曰く僕らのベースは音楽。これからは趣味になる、とのことなので、「30周年のときはメンバーだけで何かやろうよ」と松岡がトキステで言ってたのをひとまず実現して欲しい。
精一杯、生きて行こうね。